やりたいことが分からなくて神経が焼かれたから、やりたいことをやる。

道はひとつしかないのか? 自戒の念

眠れないまま朝が来て、いつの間にかやりたいことが山積みになっている。

それを本当にやりたいのか、わからなくなることも多い。何のためにそれをやろうとしているのか。もしかしたら本当はやりたくないのか。それとも。

ところでやりたいことはあるが、それとは別にやりたいことを見つけようとしたら神経が焼かれた。

正直こんなものは探すものではないと思った。

例えばブログは書きたいから書くだけ。その向こうに目的は無い。

3日前まで、私は起き上がることができないでいた。目を覚ましていても起き上がる気力がどうしても出ないのだ

以前の記事を整理してリセットした。

これは必要なことだった。

以前は自分の感情以外のところで書いていた気がする。何か書かなければいけないと思っていた気がする。

もうあまり余計なことを考えず自分の頭の中で書きたいことを書いていたい。

今までの記事も別に悪くはないが、どうも現在の気分と波長が合っていない。

もちろん自分自身が書いた自分自身の言葉には違いない。しかし自分の肉体を通って出てきた言葉のように思えない。

今、できるだけ素直に書こうとしている。

何かをやるときには、いつもその理由を必死で追いかけていた。しかしやりたいと思う気持ちに理由はあまりない。

自分のためにやると言う以外に思いつかない。

ただやりたいからやるのだ。

その先にブログを書く以外の目的は今は無い。精神に良い効果や悪い効果があったとして、それは結果としてついてくるものだろう。そこは後で考えればいいだけだ。

もはやこれは日記ではないだろうか。そうでなくても良い。なんでもいい。

本当に何でも良い。

私は思い描いた自分と言うものにどうしてもなれないと思う。

どうも私は本当になりたい自分やなりたい未来をよくわかっていなかった。

だから以前に思い描いたのは、本当は私がなりたいものでは無かった。他人のものまねの作られた理想ばかりだったように思う。

そんなものになりたくは無い。だからならなくて良い。 

今のままでできることをすれば良い。

やりたいことを見つけなければならない訳がない。無意味だ。

やりたいことを見つけなくていい。なくても寂しくない。

やりたいことを見つけなければいけないと思ってしまうのはなぜだろう。そしてずっと、やりたいことやりたいこと、と考えていても見つからないのはなぜだろう。

やりたいこととは義務ではない。見つけなければいけないと思うこと自体が間違っている。

そして、いくら考えても絶対に見つからない。

私は誰かがやりたくてやっていることを様々な場面で見るにつけ、自分も何か1つ見つけてそれに没頭しなければいけないのではないかという変な義務感を感じていた。

お手本になるのも自分ではない他人のやりたいことばかり。

ブログなり動画なり趣味なり仕事なり、誰かの何かに特化したものを横目に見ては、自分にはそれがないことに焦っていた。危険な位に思い詰めていたかもしれない。

しかしそれが見つからないからといってなんだというのか。私は見つからなくても何も困らなかった。何も寂しくなかったし、大切な人々は変わらずそばにいるし、もうそばにはいない大切な全ても離れる前よりも大切に思えるようになった。

好きなことを見つけるとかやりたいことを見つけることが出来なくても、惨めでも何でもない。

良いのだ。

私には向いていないのだ。

きっぱりとあきらめれば良い。

誰かのやり方が全ての他のやり方に当てはまる訳がない。

自分の中の良心に従って怠けても良い。自分の中でだめなものはだめだ。しょっちゅうくじけるが、少しずつ自分の中で一応の合格点がつく時が多くなればいい。

やりたいことを見つけるよりも大事なもの

そういえば、私にも10年以上続けていることがある。

何かに心が折れても、著しく体調崩しても、とりあえずはずっと続けて来れたことがある。

私はこのことに関しても、常に他の人と比べて、自分ができていない事に焦っていた。

自分のことよりも他人の事ばかりが気になった。他人に勝つために(他人の何にかはわからない)どうすればいいのか分かりを考えていた。

もちろんこの活動において他人を参考にしたり、盗めるところは盗むというのは大切だ。

しかし今までの私はそういうことではなく、ただただ、やりたい気持ちや、向き合い方において、自分と他人を比べ、いつも自信を持てず、胃液が逆流しそうなほど神経をすり減らしていた。

しかし考えてみた。

これは私だけの歴史であり記憶なのだ。

私がたった1人で独占できる特別な年月だ。

誰かと比べることはできない。そしてこれからもしない。

代わりにするべきことは、他者への感謝。圧倒的な感謝の気持ちを持ち続けることだ。

自分のためにやっている。

自分のためとはすなわち、出会えた他者との関わりに感謝することだ。

どのような表現をしようとも、私の気持ちはそこに結びついている。たとえ他者を寄せ付けないような人物に見えたとしても、それこそどう見えようと本心は私の中では紛れもない真実である。

どう考えてもそうとしか思えないので、嘘のつきようがない。

やりたいことを見つけることよりも、今やっていることについて、なぜやっているのかの方がよほど大切に思える。

しかし10年以上続けていることがあると言うのは本当に幸運だ。そしてそれは100%自分のためであり、自由であり、自分自身の良心に委ねられた行為だ。

私は活動の中で、自分を創造し、他者と関わり、よしと思った方向に進む。

これは誰かの喜びのためにやるのではなく自分の喜びのためにやっている。

それほどストイックではないが、ほどほどに頑張っている。

例えば誰かが私のために歌を歌うとして、確かにその事は嬉しいが、私はその人がその人自身のために歌う方が幸せを感じる。私のために歌うことすら自分のためだと思ってくれたら本当に嬉しいだろう。

スケベ心は見抜かれる。不必要である。当たり障りのない人でなくても良い。

自分のために一生懸命やれていれば、私の中でそれはとても良いことだ。

だからやりたくないならしない。自分のためになっていないならしない。腑に落ちていないならしない。時々間違えてやってしまいそうになったら、すっぱりやめる。なかったことにしていい。

そしてどうすればしたくないことに足を踏み入れないようにできるかよく考えて動く。

時々これはひどく難しいが、やる価値がある。

やりたいことはたくさんあってもいい。なくてもいい。

さて。こうやってつらつら書いてきたが、過去の記事を一旦リセットしたので、この文章を読む人もこのままでは多分1人もいないのである。

スパムコメントが未承認でぶら下がる位だろう。

ブログに関してはやりたいことがある。

挿入している画像を自分で作成したい。

今思いついたばかりだ。全てを作成するのは少し無理があるので、苦しくない程度に考えたい。義務ではないから気楽だ。

外国語に興味があるので、少しずつ語学の勉強をしている。これは本当に気力が落ちてしまって自己嫌悪に陥った時にもできるので良いと思う。

気力が落ちているときに勉強する気になるのかと言う疑問も湧いてくるが、すべての事をほっぽりだしてもとりあえず語学の勉強に逃げると言うことができる。しかも完全に1人でできる。誰にも何も言われない。

今まで続けている事に関しては流れに任せることにしている。1人でできる事はやるとして、他人からの評価はある基準を設けて聞いていこうと思う。

自分のためになるかならないか。

相手の好き嫌いで言われた評価はとりあえず気にしなくていい。

誰かの好みに寄せるつもりはない。しかし自分について客観的になれるようにそこは努力したい。それは自分の良心に従うと言うことだ。

朝目が覚めたらやりたいことで頭がパンパンになっている。

どれかひとつにしぼれない。

誰かのウケを狙うこともできない。

知って得するだの、お役立ちだのは提供できない。

私は私のためにやる。誰かのために何かをしたとしても、私のためだと言い切れるようになりたい。

そっくり真似をすれば良い理想のお手本はない。

好きなものがあれば好きだと言うことを楽しみ、苦手なものがあればそっと避けていけばいい。苦手なものに興味が沸けば少し覗いてみるのも良い。

疲れるようなら何もしなくていい。

そのように生きられたら本当に良いと思うので、私は私のために近づいていきたい。







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